赤軍の土地改革による追放から始まるルディの人生の物語は、家族の物語を研究する僕にとって現代史の語りを実体験する願ってもない機会だった。そしてまた自分の父について考える契機ともなった。祖母のことはいつも考えるが、父の人生の語られていない部分について共感を試みなくてはならない。
GHQ主導の土地改革で没落した地主の末子に生まれて良くも悪くも古い日本の農村で育った父が、工業高校卒の学歴で都市に移り、大企業に入社して技術職で勤め上げたのだから成功者なのだが、生まれてからずっと窮屈な中、生きにくいのを我慢して生きてきたのだろうかとふと想像する。
あの辺り、今では普通の「地方」という顔をしているが、父の育った時代の農村の心性など僕には思いも及ばない。一般に封建的な風土での末子の扱いは悪いし、しかもその中で育った父が何の縁故もない都市に移って企業に勤めるなど想像を超える居心地の悪さだったのではなかったか。
米飯を銀シャリと呼んで尊ぶ父は、彼の内に生き残った農村的生活感情を「まんが日本昔話」の世界に見出していた。しばしばあのアニメに出てくる言葉を気に入っては日常に転用していたものだ。たとえば美味な副食を「飯ぬすっと」と呼んで、食を褒める数少ない語彙に加えていた。
食事のうまいまずいを言うことをほとんど罪悪と心得ている節のある父には、味の良し悪しを表現する語彙が乏しい。料理をする習慣もないので仕方ないのだが、母の作る料理への最大級の賛辞は飽食への不安にも似た「こんなうまいものを食べていいのか」だった。あとは「んめ!」くらいだ。
いつも忙しかった父との思い出は精彩起伏に乏しい。家庭を省みないというよりは、良き父たろうと努めても関わり方が分からないという感じだったのかもしれない。伝統と隔絶せざるを得ない生活様式は家族という単位の自然な運営を困難にしていた。父が祖父にロールモデルを求めるのは無理だったろう。
飲食や服飾のような形而下的対象への愛着をほとんど軽蔑しているかのごとく、父にはこだわりがないのだが、自分のことと同じくらい他人のことにも無頓着で、それで損をしたこともあったかもしれない。しかしその分だけ教養と修養は重視している。若い頃の愛読書は吉川英治の『宮本武蔵』だったという。
父は人からどう思われているのだろうか。母は彼を褒めるとき「立派な」と言う。僕は彼に「背中で語る」とか「男らしい」といった父性形容に典型的な語を用いるのをためらう。これと対照的に、妹の夫は結婚式の時に彼の父のことを無条件にかっこいいと賞賛していたので、その素直な敬意をうらやましく思ったものだった。僕たちの父のかっこよさは、少し分かりにくい。
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